遠州横須賀 新屋町 (あらやまち)
(町の歴史を紐解く)
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笠井屋前より三熊野神社方面を見る
故・原田政太郎氏(菊川市)の作
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H30.4.7 H30三熊野神社大祭 笠井屋前 |
新屋町の誕生 |
「新屋町」の名が歴史上に登場するのは、寛永11年(1634)6月、第11代遠州横須賀城主・井上正利公の町普請により、河原町、拾六軒町とともに町人の町として作られた。
井上公の町普請は寛永20年(1643)大工町を現在の場所に移し、今に残る横須賀12町が完成した。
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町名の由来
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「新屋町の名は、本町に続く新しい家並みの町、あるいは田町、新町からの新家が多く移り住んだことからこの名がついたとも言われている。
また、組名の「あ」は新しい町の「あ」から付けられたと言われている |
人口の変遷など
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享保7年(1723)の人別帳によると、当時の人口171人、慶応4年(明治元年・1868)戸数47戸、人口176人、昭和50年代には戸数60戸、人口200人を超えた時もあった。平成19年11月現在戸数47戸、人口155人となっている。
町内は東組9戸、東中組13戸、中組10戸、西中組9戸、西組6戸の5つの組に分かれ、年中行事や稽古場の掃除などを当番制で行っている。
なお、新屋町は平成15年11月に待望の法人化をなしとげた。
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新屋町側より枕町小路を望む
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枕町小路
笠井屋前三叉路から南へ下る道筋はかつて「枕町」というひとつの町だった。
東西に長い番町に対して南北に交わる一番東側の道で、枕のような位置のため、その名が付いたという。
明治以後は今の県道より北側は新屋町となり、枕町の名は小路の名前のみに残ることとなった
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旧・新屋町稽古場
旧新屋町稽古場は明治40年、当時の大須賀村の役場庁舎として建てられた。その後、横須賀町の役場として昭和8年まで使用され、払い下げを受けて以後稽古場として現在に至っている。築後約百年たつが、修理改築をしながらも、当時の面影をそのままに残している。
※旧新屋町稽古場は老朽化のため平成17年7月に解体され、同年12月23日にはその姿そのままに新築されました。
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元横須賀町の役場庁舎を稽古場として、平成17年まで使用されていました
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昭和10年建築のシンメトリーの祢里小屋
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旧稽古場の姿そのままに建替えました
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旧稽古場「電話室」の扉を再利用
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新・新屋町稽古場(H17.12.23落成)
町並みや周辺の景観にも配慮し、旧稽古場の姿そのままに、建て替え新築されました。横須賀町役場当時の「電話室」の扉は、稽古場内の書庫の扉として、再活用されています。
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昭和30年頃の新屋町の町並み (わたやさん提供)
三熊野神社前より東(新屋町方面)を見る
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神社入り口の階段が懐かしい
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新屋町に今も残る、懐かしい風景 |
日行事(がちぎょうじ)の持ち回り札
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新屋町の由来
(まちなみを考える会
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新屋町裏の豊川稲荷様、子安様、金毘羅様。
御嶽山はご本山へお返しいたしました。H15頃
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安禅寺の共同井戸
最近まで使ってました
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今も昔も・・・
赤いポストはいいですね
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看板だけははそのままに
※H29.8.12残念ながら解体されました
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手づくり&手彫りのガラスです
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レンガ造りの麹室
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あ組お祭り倶楽部
(現在は休止中です)
新屋町のお祭り有志では、毎月一回程度の「あ組お祭り倶楽部」を稽古場で行っています。古老による昔話や太鼓の叩き方の指導、全国各地のお祭りやいにしえの横須賀のお祭りVTRや写真を見たり、楽しみながらお祭りについての勉強をしています。

「おらの小さい頃は・・・」
子どもたちに昔のお祭りの話を
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名人による太鼓の披露
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新屋町 あれこれ情報
9/15(土)〜16日(日)ちいねり(愛宕神社ご祭礼) |
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新屋町の役員+α会など
7/14(土)PM7:00〜新屋町役員会(稽古場) |
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笛の練習日など
水曜日夜の笛の稽古は7/4(水)をもって終了いたしました。
昭和53年から40余年、長年のお付き合い、本当にありがとうございました。
※水曜日メンバーは火曜日のわたやさんの日にお世話になることになりました。
よろしくお願いいたします。 |
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新屋町歳時記/稽古場日記
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